[辺獄にて]

 ドーランを塗り、粉白粉を叩き、紅をさす。元来整っている顔を陶器のように白く塗れば、鏡に映る自分は美しく、神々しくさえ見えた。最後の舞台に向けての身支度を至って平穏な気持ちでできている自分を不思議に思う。日中は客だけではなく、仲のよかった奴隷たちとも別れの挨拶を交わした。相手にとって、別れという言葉は適切なのか定かでないが。

 手鏡を置いてベッドから立ちあがり、厚化粧の顔に反して今までの装いに比べたら地味すぎる白の着流しをまとい、原稿と小刀を持って自室を出る。リンボに向かって、鉄のドアを開けると階段をおり、奴隷の呻きと叫びが響くなかを進む。だんだんそれに客たちの賑わいと、なにやらオーケストラの曲が加わってきた。

 休憩スペースに入る。客たちは、たとえすすめられても俺はまったく口にする気の起きない、得体の知れない肉を振る舞われていた。皮の部分が心なしか肌色に見える肉にナイフを入れている客たちに挨拶しつつ、前座へちらちら目を向ける。ペーパースクリーンの取り払われた開けたところで、金のアクセサリーを過剰につけ、ヴェールを体にまとった彫りの深い顔立ちの女奴隷が踊っていた。流れているBGMには聞き覚えがある。そう、曲名は確か七つのヴェールの踊り。

 サロメか。昔デートの付き合いでオペラを観劇したことがある。サロメに扮する女奴隷はアクセサリーをきらめかせ、炎のような色合いのヴェールをひらめかせ、両腕を天に向けて広げたり、地団駄を踏んだり、床を転がり廻ったりしながらヴェールを脱ぐ。辺りには色取り取りのヴェールが散乱していた。すでに五枚。さすがにプロと比べたら動きか表情か、どことはっきり指摘できないが迫力と狂気に欠けている。

 しかしここはリンボだ。踊りなどメインではない。暴れるように舞いつづけ、ついに七枚目の漆黒のヴェールをむしり取る。曲がおわった。やや筋肉質な女体の裸、たくましい太腿に薔薇が咲いている。そして使用人が……サロメの筋なら王女サロメへ王からの踊りの褒美である生首を載せた銀の皿を渡す。王女さまがどんなに求愛しても、ソドムの娘だのお前は呪われているだの暴言を吐いて拒絶しつづけた預言者の男。恋い焦がれ、欲情を燃やしていた男の首に感極まって口づける。

「ああ、とうとうお前の口に口づけしたよ!」

 肉を貪っている観客たちから下品な喝采があがった。天使の家ではなく、たぶん別から仕入れたのであろう外国人だと思われる青年の首は、思わず見惚れてしまうほどの美貌があった。滑稽なサロメよりも、俺よりも美しい。

 それからサロメが退いたところで、床に正座した。真正面の真紅のソファーには旦那さまと、どういう趣味の悪い意図なのか彼女がいる。観客たちのなか、スケッチの道具を携えている宮沢さまも目についた。かたわらに小刀を置いて、両手に原稿を持ち、文字へ視線を落とす。

「……旦那さまから様子を見にいってやりなさいと度々言われましたが、すぐにはリンボに堕ちた伊織に会いにいけませんでした。だってもう、どんな顔をして会ったらいいのかわかりません。会ったところで、彼女はどんな気持ちになるのか。

 しかし――孫の顔、見たかったぞ。と残念がる旦那さまの口振りからして、彼女の助かる見込みはなさそうだと思いました。そもそもは旦那さまが子作りの話をしたせいですが、彼女にあんな愚行をさせたのは私です。このままでは罪悪感に押し潰されてしまいそうでした。愛情を失った相手とはいえ。

 せめて最期に顔を合わせるべきか。そしてまったく償いにはならないと思いますが、彼女から思いっきり罵られるべきか。彼女はもう、裏切り者である私に憎悪しか抱いていないだろう。……数日間、リンボで伊織はどんなひどいことをされているのかあれこれ想像して胸を痛めたり、妙な気持ちになったりと悶々としてからようやく彼女に会いにいく決心をしました。なんだか私、同じようなことを繰り返していますね。

 後ろめたさを感じながら重い足取りで、リンボに向かう暗くて狭い階段をおりました。途中、見慣れた傷つけられすぎて奇形のようになった奴隷の姿をつい頭の中で伊織に置き換え、ぞくりとしつつ彼女が収容されている檻の前を目指します。

 柵越しの彼女は膝を抱えて座っていました。うつむいていて、つやを失ったばさばさの髪が前に垂れ体を隠しているので、どんな状態なのかよくわかりません。恐る恐る声をかけてみました。すると、足音には無反応だったのに彼女は肩を跳ねさせて、勢いよく顔をあげます。そこには容色が劣化しつつも、愛せる彼女がいました。

 数日で痩せた、というよりやつれていました。飛びおりで負傷したらしい脛が包帯で固められている以外、やはり責めを受けているようで右目は眼帯に覆われ、両腕にも包帯が巻かれています。左目はくまが目立ち、唇の端には血が滲んでいました。楽園にいたときよりもひどい至るところにあるあざが、色白の肌に残酷に映えています。

 そして、彼女が私に感じているであろうと思っていた憎悪は、どうやら違ったようです。そっと、虚ろに、しかし助けを求めるように彼女は柵のあいだから手を伸ばしました。――あ……あ……と、私になにか言いたいのだけれど言葉にならないといった様子で、呻いて。罵ってくるより、痛々しく見えました。もう体も心も弱りはてた彼女はかつての、いややはり思い人である私を求めるしかなかったのです。

 張りつめていたものが自分のなかで、破裂しました。ああ、なんてことをしてしまったのだ俺は。ほぼ崩れ落ちるみたいに床に膝をつくと彼女の手を取り、涙声で――ごめん、と繰り返します。彼女も静かに泣き出しました。嗚咽が落ち着いてきてから私は――あんなの嘘だから。一人で出ていけだなんて、嘘だから。まだ……なにかチャンスがあるかも知れない。だから、頑張ってくれ。と、かなり無理のある弁解と、そのときは本気でしたが結局は再び嘘になってしまうであろうことを口にしました。彼女は愚かしく、健気に、何度もうなずきます。

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